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会津藩の借金と改革

昨年の大河ドラマを覚えているでしょうか。江戸から明治にかけての混乱の時代に、銃を持ち男性と共に戦う会津の女性が主人公でした。実際にこのような女性がいたことはとても衝撃的でした。
さて、ドラマでは新政府軍と旧幕府軍側の会津との戦争がメインとなっていますが、会津藩は借金の多さとその改革にも注目すべき点があります。なぜ借金が増えてしまったのか、その原因でもある会津藩の成り立ちから追っていきたいと思います。

借金の理由
1643年に2代将軍徳川秀忠の子である保科正之が会津藩主を任されました。正之は会津の憲法ともいうべき「家訓15カ条」を定めました。将軍家の血筋とあって、第一に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」と記しています。
以後200年に渡って、この「徳川家第一」は会津藩主に代々受け継がれていきました。この時点では農民の数も増え、順調なスタートではありましたが、徳川に近い名家であるがゆえに江戸幕府への莫大な出費で年々財政は悪化していきました。

1734年には借金は18万両となりました。そこで4代目藩主は年貢率を上げて増収を図りますが、それは農民にとって時に7割を超えるひどく重い負担でした。そして1749年とうとう一揆が起こりました。これ以降、藩は民意を無視した行いを反省します。さらに、飢饉も重なり1772年には借金は57万両にも膨れ上がっていました。現在の価値と比べるのは難しいのですが570億円に相当するといわれます。

改革の内容
この莫大な借金を減らすべく1787年に様々な改革を始めていきました。農民一揆の反省から、今回は現場主義で改革を行いました。改革例をいくつか挙げますと、

    1.農村の立て直し : 現場を管理できる支配体制、結婚年齢制限(男23歳・女17歳まで)。
    2.産業を立て直し : 漆器、薬用人参、絵ろうそく、酒造りなどを奨励し藩が直接関与。
    3.教育改革 : 会津藩校の設立。学校の設立は、優秀な人材を育てることが藩の立て直しにもつながると考えたため。
               学校給食もプールの設置も初めて行われたのがこの会津藩校の日進館。

このような様々な改革によって1804年には27年前よりも40万両の借金が減ったようです。やや安定を取り戻しつつあったといえるのではないでしょうか。さらに1852年松平容保が藩主となると海外への輸出に力を入れました。しかし、これから藩の経済を発展させていこうとする中、「徳川家第一」の家訓から逃れられず、会津戦争という不幸な結末をむかえてしまいます。

財務省は2013年9月末の国債及び借入金並びに政府保証債務の合計残高(国の借金)が1011兆円になったと発表しました。現代と江戸時代を比べることはできませんが、改革によってこれ以上借金が増えない事を期待したいところです。

出典:角川SSC新書「大名の家計簿」山下 昌也著
    財団法人会津若松観光公社「やさしい会津の歴史」

千葉流山事務所 山田理香

 

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