明治政府と暦

東京では昨年より早く桜が開花して、3月16日に開花宣言となりました。
平年より10日ほど、昨年より15日も早く、花見の予定を繰り上げる人々が話題にもなりました。いつもの年であれば、3月の終わり頃であろう、と予定した人が多かったのではないでしょうか。

我々は、この慣れ親しんだ暦の日付を見て、季節を読み、行動しています。この暦ですが、太陽暦という暦法を用いており、日本で採用してからまだ140年ほどしかたっていないことをご存じだったでしょうか?
それまで使用されていたのは、季節と月日は毎年ずれており、現代の暦の見方とはまったく異なるものでした。
 
日本では長い間、中国で発達した太陽と月から計測する太陰太陽暦を採用していました。
月の満ち欠けを基本とし、1ヶ月は29日と30日の組み合わせであったので、実際の季節より毎年11日ほど速くなります。2年か3年すると、この蓄積したズレを調整する為に閏月(うるう月)を設け、その年は1年を13ヶ月としました。今日我々が用いている太陽暦からすると複雑な暦法となっています。
利点としては、月の形を見るとだいたい何日かがわかり、潮の干満の大小やその時刻を知ることができます。ちなみに季節を知るには別の「節気」というものを参考にしていました。日本では1500年もの間この太陰太陽暦が用いられ、日本の伝統にもしっかり組み込まれていました。

では、どのタイミングで現在の暦へと改暦を進める事となったのでしょうか?
それは、幕末に開国して外国との交際が始まり欧米諸国と日付が相違することに不便さを感じてきたことにあります。さらに明治政府の財政が後押しとなります。

明治4年に官史の給与を年棒から月給へ改めました。年棒から月給にしたという事は、閏月が来る年には13回支給しなくてはなりません。
当時、学校制度の開始、軍隊の創設、鉄道の建設を始め、明治政府の財政は支出が多く、火の車でした。そこで明治6年の閏年が来る前に、急きょ現在の太陽暦を採用することで、13回の支給を逃れたのです。明治5年12月2日で暦を改暦し、翌日を明治6年1月1日としました。ついでに、12月も2日しかないとして、12月の支給も無しとしました。

しかし、この改歴発表はなんと11月9日に発表され、1ヶ月もなく変更されたため、あまりに急で庶民は暦になじめず、その後も太陰太陽暦は「旧暦」として長く残ることとなります。
大胆な改暦をした明治政府ですが、支出を抑えるだけでなく地租改正、証券印紙税、その後も煙草税、酒類税を創設して収入への改革も進めました。

カレンダーをただの便宜上の月日ではなく、旧暦に思いをはせ、月のリズムを気にしてみると日本の伝統に忘れていた発見があるかもしれません。

出典:新人物往来社 「日本の暦」歴史読本編集部 著

千葉流山事務所 山田理香

 

この投稿へのトラックバック

トラックバックはありません。


関連記事

■「中小会計要領」とは何でしょうか?

■いまや個人がメディアになる時代 ~ビデオマーケティングのすすめ~

■儲けちゃいけない?NPO

■時短術!経理処理の進め方について

■経営者が学ぶ古典 ~「韓非子」と「論語」~